「父は、馬賊との白兵戦で誰もが驚くような活躍をしたのだと思います。」

「『白兵戦』と言いますと?」と町会長。

「ウィキペディアの『白兵戦』に、『白兵戦は、刀剣などの近接戦闘用の武器を用いた戦闘を指す ・・・ 中世-近世の日本では、歩兵として農閑期の農民を徴用していたため、武士に比べて白兵戦の戦果を期待できず、遠戦が主体だったという説がある。しかし、実際には弓矢は鍛錬が必要な専門職であり、投石は限定的、鉄砲は高価であったため、正しいとは言い難い。当時は、ほとんどの兵は白兵戦に備えて刀などの白兵武器を携帯していた。

戊辰戦争後、明治になって四民平等の世になり、徴兵制によって武士階級以外の人員で軍隊が構成されるようになると、この傾向が強まったとされる。

西南戦争田原坂の戦いでは、白兵戦能力に秀でた西郷軍に対抗できなかった政府が、警視隊の中から選抜した「抜刀隊」(機動隊の先祖)を臨時編成し、投入した。この活躍は、維新後廃れていた剣術の再評価(警視流制定など)に繋がった。

日露戦争における旅順攻囲戦や奉天会戦で白兵戦に苦戦した日本軍は、明治初期にフランスやプロイセンの操典を翻訳して作られた陸戦の綱領『歩兵操典』を、1909年に改訂した。この操典の綱領では「戦闘に最終の決を与えるのは銃剣突撃とす」としていた。

当時の欧州先進各国の陸軍も、敵軍殲滅のための包囲機会を形成するのに敵陣の突破が必要である以上、白兵突撃は必要不可欠であるとしていた。これは、第一次世界大戦における砲の集中使用と機関銃の大量配備によって否定されたが、火戦の後、最終的に白兵戦で敵陣を殲滅するという考え方は残った。日本もこの状勢から、第一次大戦におけるドイツ帝国の浸透戦術を取り入れ、砲、機関銃による十分な攻撃の後の白兵突撃戦術を発展させ、その後の満洲事変、日中戦争において戦果をあげた 』という記載があります。」

「それでは、馬賊との白兵戦で、抜刀術を試したということですか」と町会長。

「おっしゃる通りです。ウィキペディアの『宮本武蔵』に、『慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い』という記載があるように、戦国時代や江戸時代初期の剣術家は、皆、白兵戦を経験していたと推定しています。」

「戦国時代や江戸時代初期の剣術家は、戦に参加して手柄を立て、出世しようとする人だから、当然そういうことになりますよね」と町会長。

「おっしゃる通りです。父が読んだ極意書の中に、白兵戦の戦い方なども書いてあったろうし、抜刀術そのものが白兵戦に耐えうるようなものだったと推定しています。」

「なるほど。抜刀術は、現在の居合と違い、白兵戦で戦うための技術を含んでいたということですか」と町会長。

「おっしゃる通りです。」

「それで、上官が『お前が相手をしてやれ』と言ったということですか」と町会長。

「おっしゃる通りです。」

「他に、安心して中国人の武人と戦わすことができるような人がいなかったということなのですね」と町会長。

「父は何も言っていませんが、そういうことだと思います。」

2021/6/3

<筆者の一言>
考えてみると、院長は筆者が昔販売していた『肺兪』という名前の円盤型のパワーグッズを持っている。もし、院長が筆者が言ったように、夜、床につく時、『肺兪』を枕の下にいれていたのなら、こういう結果になるのかも知れないと思った。

筆者が作ったシュリーヤントラ系のパワーグッズは空間を支配して、ビル全体を陽にするのだが、『肺兪』は接触系パワーグッズなので、携帯している人だけに効果がある。名前から推察できるように、このパワーグッズを携帯していると皮膚に常に気が流れているので強い陰の建物や強い陰の気を出す人間の近くにいても影響を受けない。そのため、筆者も息子も、外出する時には携帯している。<続く>

2024/5/21